宗通寺の歴史物語

宗通寺物語〈外伝〉 キリシタンの夢

岩脇帯刀や堂ノ前彦次郎は〝キリシタン〟だったと伝えられています。そのころ、この地方には、この二人だけではなく、もっと大勢の〝キリシタン〟たちがいたようです。今回は「宗通寺物語」の〈外伝〉として「奥州のキリシタン」を訪ねます。

 ◇キリシタンがやってきた

 日本にキリスト教が伝来したのは室町時代末期の一五四九年。鹿児島にやってきたキリスト教伝統派(カトリック)でイエズス会の創設者フランシスコ・ザビエルによってです。

 そのころ、当時の超大国スペインやポルトガルは航海術の進歩で、大船団による海洋進出を画策していました。キリスト教国家と一体であったバチカンの教皇庁は、これを機にキリスト教をヨー ロッパ以外の国々に広めようとして、スペインは西方に、ポルトガルは東方への展開を指示します。スペインの大艦隊は、大西洋を渡り南米大陸に到着。インカ文明などを制圧し、金銀などを収奪して本国に送り、植民地にしていきました。

 一方、東方を目指したポルトガルの大艦隊は、イスラム教国の東欧諸国を避け、大西洋を渡ってブラジルに着き、ここを植民地としました。ブラジルは今でもポルトガル語が公用語です。ザビエルはこの船に乗っていたのです。一行は大西洋を東方に進路を取って航海を続け、アフリカ南端の喜望峰を回ってインドのゴアに着き、さらにマラッカで、薩摩人・ヤジロウに会いました。彼の手引きで鹿児島に着き、島津氏の許可を得て、キリスト教の布教が始まるのです。

 最初、信長や秀吉は、キリスト教に対して融和的でしたが、キリシタンと在地勢力のトラブルなどが頻発したり、長崎が「キリスト教領」となっていたことや、キリシタン大名との戦いで負けた側の民衆が奴隷として海外に売られていっていること。宣教師がマニラ総督に向けて武器弾薬を送ってほしい旨の手紙を書き送ったことを知った秀吉は、宣教師の追放と禁教を指令します。決定的だったのは、一五九六年、スペイン船サンフェリペ号が東シナ海で漂流、日本に助けを求めて土佐(高知県)に漂着した時のことです。スペイン船側は地球儀を持ち出し、スペインは世界中にこんなにたくさん植民地を持っている強国だ。云うことを聞かないと怖いぞ!と脅しを掛けてきた(という)のです。これに驚いた秀吉は、キリスト教の禁止を布令し、キリシタンを捉えて処刑するよう命令、14人の日本人信徒を含む人が長崎に連行されて処刑されます。

 

 ◇陸奥のキリシタン

  東北地方(陸奥)へのキリスト教が伝わったその初めに伊達政宗が関わっています。家康が江戸に幕府を開いた一六〇三年、外様大名を江戸に集めて忠誠を誓わせ、同時に、屋敷地を与えて江戸に住むよう強制します。政宗は、江戸滞在中、愛妾が病気に罹り、フランシスコ修道会の神父・ソロテの病院で治療を受けます。西洋医術に感銘した政宗はソロテの仙台滞在を招請し、キリスト教布教の自由を保障しました。

 慶長一六一三年。政宗は家臣の支倉常長を使節団長とし、洋式帆船を仕立てて、バチカンに派遣します。ソロテも副使節として同道しました。7年後、洗礼を受けた常長らは、ほかにたいした成果も上げられないまま帰国しますが、帰り着いた日本はキリスト教禁制の大嵐のまっただ中でした。ソロテ神父はマニラから薩摩に上陸しますが捕縛され死刑にされます。支倉の末期も悲惨でした。

 ◇南部藩の場合

「…南部藩には日本で最も豊産する金の諸鉱山があり、最良の馬と鷹が出、また優良な木材の潤沢な土地である。」

 神父・カルヴァーリョが慶長年間、バチカンのイエズス会に送った報告書に書かれているように、岩手は日本有数の産金地で、平泉黄金文化の時代は全国の名峰を回遊する修験・山伏たちが、世紀末からは、西洋の進んだ技術を身につけたキリシタンたちが金山師として山に入り ました。やがて、九州や近畿方面での、弾圧を逃れたキリシタンたちが、岩手など東北・北海道の金山に潜り込みます。

 佐比内の「朴木金山」は、その中でもことに知られた金山で、山の麓の砥ヶ崎には三千軒とも云われる家並みが並び、村の中央にはセミナリオ(教会堂)が建つキリシタンの村でした。

 バチカンのカトリックは、犯した罪をパードレ(神父)に聞いて貰う(告解)ことで「赦される」と教えます。南部藩の金山ではたらくキリシタンたちは、近在にパードレはいなかったので、山を越えて伊達藩の福原村(現・奥州市)まで行き、犯した罪を告解して帰ると、カルヴァーリョは報告書に書き送っています。

 この福原村の主がキリシタン領主として有名な「後藤寿庵」です。 

 寿庵が伊達藩の弾圧から逃れて南部藩の岩崎村に潜伏したのは元和九(1623)年のことだと言われています。

 岩崎村の寿庵の元で新たな信徒が生まれ、また各地からキリシタンたちがやってきました。

 その中には、大迫郷の人たちもいました。

 南部藩が弾圧に転ずるのは一六三五年のことです。藩は産金による藩経済を考えてキリシタンの弾圧を控えていましたが、幕府のおとがめを受け、方針を転換します。佐比内の朴木金山の指導者は丹波弥十郎というひとですが、いち早く手入れを察知し、丹波(京都府)に逃れたといいます。

 大迫郷やその周辺の人たちも検挙され、盛岡に送られています。中には死罪になる人もいましたが、許されて帰ってきた人もいたようです。

 秀吉の天下となって旧体制は解体放逐され、瞬きもしないうちに徳川政権下となる。時代が急展開を見せる頃、一瞬のきらめきにも似た「キリシタンの夢」。いずれにしても、長い戦国時代を抜けて新時代を迎える頃を生きた人たちにとって、それまで見たことのない「文明」との出会いは、心浮き立つものがあったのでしょう。

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