宗通寺の歴史物語

第1回 宗通寺の歴史物語

一 はじまり

最初のお寺は、現在地の南東の丘陵部にありました。現寺域の山門の前を通る道は旧「遠野街道」です。

江戸時代の終わりの頃には馬三千・人三千といわれるように交通量の多い道で、海岸地方から塩や海産物が馬の背で盛岡城下に運ばれ、内陸からは穀類や衣料品などが、南部の支藩である遠野城下や沿岸地方に運ばれる、文字通り、南部盛岡藩の主要道路でした。

山門を出てこの道を南に進み、八木巻川を渉って丘陵地帯に道をとり、岩脇稲荷にかかる手前に、岩脇館の館主・岩脇帯刀の屋敷がありました。

岩脇館は現宗通寺の裏山に築かれ、変事にあっては軍事的防護拠点となったもの。館主・岩脇帯刀は稗貫氏の族臣・大迫氏(大迫郷七ヶ村を領する)の家臣団の一人でした。

今から420年前、この屋敷の街道を挟んだ東側に、小さな庵が立ちました。宗通寺の始まりです。

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いのあった年。

庵の主は「宗哲《そうてつ》」

庵の、内陣とおぼしきところに五百代の大きさの阿弥陀如来絵像が掲げられ、庵の奥からは煮炊きの煙が立ち、宗哲の妻と子どもたちの睦み合う声も聞こえてまいります。

 

僧と家族。

今の日本なら誰も不思議と思いませんが、明治になるまでは、お寺に住む僧に家族がいるなどと云うことは笑止の沙汰でした。よく大黒柱の後ろに隠したから、お寺の坊主の妻を「だいこく」と云うんだなんて俗説がありますが、明治5年、太政官布告によって僧侶の結婚が公許されるまでは、公然と妻帯し、妻子を持つのは「浄土真宗」の僧侶だけで、見つかれば、還俗させられ、たたき出されたのです。

そうです。この庵の主は浄土真宗の僧だったのです。

 

どこから来たのか。

ただ、「阿弥陀如来絵像」と経典が収められた厨子、それに少々の着替え。

この阿弥陀の絵像は金泥を施した美事なもの。「本願寺顕如《けんにょ》」(1543~1592)の裏書きと、小山田村・真行寺の本尊であるという旨の識語がありました。どんな由来があって宗哲がこの本尊を携えてきたのでしょう。

 

岩脇帯刀はキリシタンだったと云われています。 

旅の僧・宗哲が帯刀屋敷に一夜の宿を請うたのは何時のことだったのか。

やがて真宗僧・宗哲とキリシタン・帯刀の親交が始まり、帯刀は娘を宗哲と妻合《めあ》わせ、庵を寄進し、宗通寺がここに開かれたと伝えられています。

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