住職の寺人ぬ宝

阿呆ばかり

「人は皆、泣きながらこの世にやってきたのだ。そうであろうが、人が初めてこの世の大気に触れる時、皆、必ず泣き喚く・・・生まれ落ちるや、誰も大声を挙げて泣き叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に突き出されたのが悲しゅうてな」

 シェイクスピアの戯曲『リヤ王』  



 娘は今年小学生になり、規律や友人関係で揉まれながら日々を過ごしています。

 それは家庭内でも、「あれをしなさい」「これをしなさい」「早くしなさい」と子どもの将来に良かれと思いながら、親の口調は厳しくなる一方です。何が正解なのか?このままで良いのか?全く分からないまま手探りの育児ですが、お寺の本堂に座れば、日頃の心を転じる〈仏様の教え〉を忘れがちな日々に気づかされます。子どもに〈ありのまま〉を願いながらも、その実、私にとっては〈あってほしいまま〉を願っていたのでした。

 寺族は〈入院患者〉で、その他の方は〈通院患者〉に例えられたりしますが、言い得て妙ですね。毎日仏様の治療を受けなければ助かりません。

 3人の親になり、子どもが誕生するたびに「苦しまなければならない世界に産み落としていいのか」などと考えた事もありました。そうこうしているうちに「人生こんなもんさ」と嘯(うそぶ)きながら、これから子どもが抱える苦しみは忘れ、私は子どもたちが泣き叫ばなければならない世界を作り続けているのです。〈阿呆ばかり〉とはこの私のことでありました。

釋 善融

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