ご隠居が行く!!

報恩講講師 渓内弘恵師が亡くなりました

 四月八日。御遠忌以来、宗通寺の御門徒と親しく好誼を結んでくれた渓内弘恵君がなくなり、雨のそぼ降る日、石川県津幡町の養楽寺でお葬儀が執り行われた。享年七三。私より三歳年若。三十年来の友人だった。
 暮れの十二月、一緒に沖縄の「成道会」に参詣。三日間、レンタカーで南部戦跡などを巡った。
 彼は昨年初め大腸に癌が見つかり、ステージ4を宣告されていた。緩和病棟入りを勧められたが断り、全国各地に出かける暮らしを続けていた。宗通寺の報恩講にも来てくれた。衰えた様子を見せることもなく、次回を約して帰ったのだったが…。
 三月末、病状悪化を聞いて金沢の病院に見舞った。報恩講で待っているからね、と声を掛けて帰ったのが最後だった。
 親友を失うことは寂しい。
前住職 談話

三たび、沖縄の菩提樹に詣でて
 十二月七日から十一日まで沖縄を訪ねました。お天気に恵まれ、日中の気温は二十五度。真冬並みの寒い日の昼過ぎに花巻空港を出発して、夕方四時過ぎに着いた那覇空港は、夏衣の世界でした。
 三度目の訪問です。回を重ねるごとに、思いの深まるのは、沖縄の持つ歴史と文化の力のせいでしょうか。この度の訪問は、これまでの〝観光〟気分とは違って、様々な人との出遇いの旅となりました。
 八日、菩提樹苑での成道会と沖縄別院での記念講演会。夜の懇親会。難関をくぐり抜け、二〇〇四年五月に菩提樹を招来した医師の長嶺信夫先生ご夫妻、記念講演の講師で名古屋大学名誉教授の平川志信先生ご夫妻、それに、知花昌一さんなど沖縄在住の友人知人との再会がありました。
 九日、レンタカーでうるま市で小児科医院を開設する志慶眞(しげま)文雄先生と奥様の延子さんをお訪ねしました。志慶眞先生は広島大学在学中に親鸞と出遇い、十歳のころ、突然襲われた死の恐怖を超える道に立つことができたと言います。
 卒業後、沖縄に帰って小児科医院を開業して医療に取り組む一方で、病院の二階に「まなざし聞法道場」を開設して親鸞佛教を伝えていらっしゃいます。
 真宗会館三十周年記念行事の一環として取り組んだ「みちのく讃歌フェスタ」で、お釈迦さまのお覚りを歌い上げた「樹下燦々」(じゅげさんさん)を公演しましたが、今回の沖縄訪問は、この「樹下燦々」を沖縄の菩提樹のもとで唱おうという発想を具体化するためのものだったのです。
 沖縄で唯一の佛教讃歌合唱団が「まなざし聞法道場」にあり、先生の奥さんがその代表になっていらっしゃることから、「樹下燦々」の集いについてご意見を伺おうということでの訪問でした。
 幸いなことに、前日お会いした方々からもご了解を頂き、今後に向けての下地ができたように思います。
 
 ところで、志慶眞文雄先生は生粋の沖縄人(琉球人)で琉球王国の首都・首里城下に住む貴族階級だったとかで、明治初年の琉球処分後うるま市に移ったとか聞きました。
 沖縄を訪ねて思うのは、沖縄の文化の豊かさです。沖縄は明治の「琉球処分」後日本に併合されますが、それまでは独立国・琉球王国として主権を持ち、外国との外交権も当然あったわけです。従って日本の江戸期に布かれた「檀家制度」はありませんので、日本(ヤマト政権)の文化とは異質のものを感じます。
 今は「日本国」の一部として、日本国の教育を受け、「日本人」としての一体感を共有しているのですが、しかし、それは長い歴史のなかで、せいぜい一四〇年ほどのことなのです。
 「亀甲(きっこう)墓」と呼ばれる巨大なお墓を見れば歴史の違いが分かります。今回、最終日に沖縄の歴史に触れようとして博物館を訪ねたのですが、沖縄にはヤマト国家にあった「古墳」がないと言うのです。ヤマト国家が朝鮮半島の文化とつながるものであるに対して、琉球国はシナ大陸の文化と深いつながりをもって来たことを知りました。
 文化の違いを知ることで、改めて、〝私はなに人だろう〟と、思い返すことにもなりました。

焼け跡の天使

 緑の丘の 赤い屋根  とんがり帽子の 時計台…
 
 ボクの生まれた村は戦場にはならなかったが、夜、B29がのんのんのんと爆音響かせて飛んでいくのを声を殺して眺めたり、蒼天 を旋 回する爆撃機を窓越しにこわごわ覗いていた。三歳の頃の記憶…。だけど、戦争に敗れたということも、沖縄戦や、ヒロシマ・ナガサキ、 釜石が艦砲射撃で焼け野が原になったことも、「戦争孤児」についても知らないままに迎えた田舎の少年の戦後は、夕方、ラジオから 流れてくる『鐘の鳴る丘』の主題曲とともに始まっている。
   『焼け跡から』に出会って連想は深まる。昭和二十年三月十日から本格化した、米軍の無差別殺戮で五〇万人を超える民衆の 〈い のち〉が奪われ、焦土と化した国土には、十二万余の「戦争孤児」が放り出された。政府の対策はいっこうに進まず、業を煮やしたGHQ の招請で来日したフラナガン神父によって孤児対策は緒についた。『鐘の鳴る丘』はそのキャンペーンドラマとして作成放送されたと い う。
 昭和二三年早春、六歳のボクは両親に連れられて父の故郷(愛知県)を訪ねたが、その往還に立ち寄った東京のあの上野駅の周辺 で、ボ クと同年代の孤児たちが「浮浪児」と呼ばれ、街の人たちに追い立てられながら生きていたこと、そして孤児たちの救援活動が民間人の手 によって行われてきたことを知ったのはずっと後のことだ。
   四年前の大震災で大津波にのまれた故郷に立って、空襲による焼け跡を思い出したと語る人がいた。被災地には支援の花が咲 い た。復興事業は〈戦後復興〉と似ているかもしれない。
 だが、〈震災〉と〈戦災〉の間には大きな隔たりがある。戦争や原発のような、一部の人間の恣意によって引き起こされた災難は 〈支え 合い〉を閉ざし〈対立〉を生む。
 敗戦から七〇年経ち、日本は〈戦争と平和〉の岐路に立っているような気がする。〈人間〉が見えなくなったからだろうか。
 「とんがり帽子の時計台」は、作者の菊田一夫が家族の疎開先奥州市岩谷堂の、鐘を備えた役場の塔屋が原風景だと聞いた。

『焼け跡から』を公演して

前便で同朋新聞と併せてチラシをお届けした演劇『焼け跡から』は、6月15日の宮守ホールを皮切りに、16日前沢、18日盛岡劇場と3会場5舞台で公演し、1200人に上る方々にご覧頂きました。  宗通寺の御門徒さんたちの大方は宮守ホールでご覧頂きましたが、宮守ホールには、午後二時からの舞台は300人の観覧席が満席札止め。夜の舞台には170人の観客が詰めかけてくださいました。  公演の主催者として、この半年の間、会議に次ぐ会議。盛岡市・遠野市・奥州市の当局と教育委員会、マスコミ各社への後援依頼。3会場の実行委員会との打ち合わせ。資金繰り。会場の確保。盛岡では実質的な実行委員長でしたので、後援を約束してくれた盛岡市仏教会とその傘下の寺院、生協や〈地域9条〉の会の代表者を訪ねて観劇への協力要請をしました。  盛岡には五十余ヶ寺のお寺があります。これまで真宗寺院以外を訪ねるということはほとんどありませんでしたが、今回、回ってみて、盛岡の仏教界の奥深さを知りました。このことは稿を改めてご報告しましょう。  途中で何度も〈やらなきゃよかった〉と弱音が出かかりましたが、今はやり遂げたとの思いを強くしています。ご協力下さった大勢の皆様に、心よりお礼申し上げます。  チラシがまだお手元にある方。チラシの裏に前住職(つまり私)のエッセーが載っています。改めて読んでみて下さい。           (前住職)  

老成期のただ中に

 宗通寺の報恩講が大勢のご参詣を頂いて円成した翌24日の朝、花巻空港から一路京都へ。この日から28日まで本山・真宗本廟(東本願寺)報恩講へ。26日正午までは同朋会館で、午後1時より御影堂でご法話。28日まで、立て続けにご法話が続きました。  昨年は、住職引退という生涯を分ける出来事を体験。その総まとめとして、本山報恩講・御満座までの数日を、御真影の前でご法話をさせて頂くという極めてまれな時間を得させて頂いたことになります。    ご本山での、ことにも親鸞聖人のご真影の前での御法話は、余所でとは違った緊張感に襲われます。  昨年10月12日にお浄土の人となられた三重の伊東慧明先生は、かつて、御門徒の方々と同朋会館に奉仕団に来られたとき、たまたまお会いして、〈明朝は晨朝法話をすることになっています〉と言いましたところ、「御影堂での御法話は、間違ってはならない。同朋会館などだったら御門徒とのことだから、後で訂正も出来るだろうが、御影堂には、初めて仏法に出遇う人も来るだろう。外国からの方も居るかも知れない。間違ったメッセージを聞いて、あぁ仏法とはこうしたものかと誤解を与えてはならないからね。」  以後、何十回か御影堂での御法話の機会を頂きましたが、そのたびごとに、このご注意が心をよぎりました。その慧明先生も今はこの世にましまさず。  住職引退の年、先生のご西帰はわたし自身への〈自立〉の促しとなり、そして、真宗会館でのご講義の記録の刊行が、私のこれからの最大の仕事になりました。      思えば、私の青年期はただに宗通寺住職たることが目標でした。今、その目標を達成して、新たな生き方が始まりました。我が人生はまさに〈老成期〉のただ中にあります。若い頃の思い出話に時を費やさず、成さなければならないことに身を尽くしていこうと思っています。